窯主紹介
福田 雅夫 Masao Fukuda
1954年 佐賀県有田町生まれ
1977年 武蔵野美術短期大学 専攻科 陶磁器専攻修了
1977年 特注金物の制作を始める
1980年 有田に帰り福珠窯を継ぐ
1993年 直営店出店(静岡・御殿場)
2003年 ARITA nanakura 事業開始
2006年 ギャラリー&ショップOPEN
2007年 レストラン「茶寮かぜのかまえ」OPEN
20代の頃
やきものよりも漆器や鋳物が好きで、学生のころは北陸や東北地方の産地をよく旅行していました。
そんな関係で美大を卒業してからは都内の金属鋳物の町工場に就職し、デザイン、制作、現場取り付けと、職人さんたちといっしょに仕事をしていました。
その当時、銀座の待ち合わせ場所にしようと鉄とアルミの鋳物でモニュメントを作りました。この仕事はサインデザイン賞を受賞し、これは今でも銀座に残っています。デザイナーと職人との協同作業という福珠窯の仕事の進め方はこの頃から芽生えていたのかもしれません。小さな会社でしたが、ものづくりの環境がとても楽しくてこのまま金属の仕事を続けていくのかなあと思っていたところ、父親が創業していた福珠窯を継ぐことになり、25歳のときに有田に帰って来ました。
30代の頃
もともと自然の素材とか日本の伝統的なものは好きだったのですが、その当時(昭和50年代)の有田焼は伝統のうわべだけ利用して商売しているような感じがして(当時の私の主観です)、最初は好きになれませんでした。
ほんとうに有田が好きになったのは帰ってから5~6年たってからのことです。
古伊万里様式というテーマで制作する機会があり、調べていくうちに歴史に惹かれ、モノに惹かれてどんどんのめりこんでいきました。「自分の眼で本物をちゃんと見ていけばいいモノがたくさんある」 「なぜ昔の有田焼には魅力があって今のものには魅力を感じないんだろう」 その理由を突き詰めていくと、本物の素材とごまかしの無い職人魂のようなものでした。
それからは土、釉薬、絵の具、焼成というやきものができるまでの素材や技術・技法といったものをひとつひとつ吟味して探っていった時代でした。
歴史と伝統を再認識しながら、同時にインテリアやライフスタイルの中でのやきものという視点でものづくりを始めたのもこの頃からです。
40代の頃
有田では90年代に入って経済的に縮小が始まり、後半には倒産や廃業する工房もいくつか出てきて経済的にも厳しい環境にありました。全国の伝統工芸の産地はどこもみな衰退してきていました。
有田の歴史はまだ400年ぐらいで、その中でも良い時も悪い時もあってそれを繰り返しているのですが、今後100年200年と歴史をつないでいくには今なにをしなければならないのだろうということをずっと考えていました。
考え続けた末、2002年の暮れに喜多俊之さんに相談するために大阪へ出向きました。
産地の中、業界の中だけの発想では打開できない、間違った選択をしてしまうかもしれない。もっと広い視点で有田を考えてみようと思ったからです。
「これからの有田焼をどうしたらよいのだろう」という問いかけに対し、喜多さんからは「17世紀の有田の原点にもう一度戻ってみましょう」という答えが返ってきました。もう一度世界中の人たちに使ってもらえるような有田焼を今すぐ創りましょうということで、すぐに50枚のアイデアスケッチが出され、私たちはそれを形にしていきました。
料理を作る人の創作意欲をかきたて、器をならべて食卓が楽しくなるような食事のシーンがイメージされたとても楽しい食器たちが出来上がりました。こうしてできたARITA nanakura HANAシリーズは2003年からイタリア、ドイツ、フランスなどの展覧会で発表され、現在世界7カ国で販売されています。
50代とこれから
自分が50代になるなんて今まで考えてもみなかったことです。
高齢化社会という社会の変化に不安を唱える向きも多いのですが、私はむしろ期待感のほうが大きいようです。今からの50代60代の人たちが何を考えどんな人生を送っていくのかとても興味があります。
「どのように楽しむか」ということを多くの人が考えるような気がします。
実際自分でも、ものづくりをしているときはとても楽しいですし、食の楽しみ、旅の楽しみ、子供の成長、歴史の研究、美術館・博物館めぐり等々・・・、これからやりたいことがたくさんあります。
2007年に自宅を利用してランチだけのレストランを妻と始めました。
器は料理を盛り付けることで始めて完成する、料理は器を変えるだけで一変するということを身近に確認したい、お客様にも知らせたいという目的で始めました。「そんなことは最初から解っていなければいけないでしょう」ということなのですが、わかっているつもりでわかっていないということが多い。
毎日の家庭での食事もそうなのですが、惰性で流れ易いのです。家族そろって食事をする、食事を楽しむという意識が薄れてくる。つまり、適度なここちよい緊張感が必要で、がんばりすぎずに適度な緊張感を持って家族で楽しむ、お客様に楽しんでもらうということが重要なのです。
ちなみになぜお昼だけの営業かというと、夜は自分たち家族の生活を大切にしたいからです。
レストランを始めたことは、素朴にものづくりの原点に帰るという意味で有効でした。
家族そろって食事をすることに幸せを感じたり、食事の後、お客様から「とても楽しかったわ、また来ますね」などと言われれば疲れも吹き飛びます。
「なるほど、料理や器づくりの仕事は人に幸せを感じてもらえるとてもいい仕事なんだ」 ということをこの年になってまた実感しているところです。
福珠窯 福田 雅夫